7月9日

そろそろ髪を切りに行かないとと思って一週間ほど、ついに散髪屋に行った。散髪屋に行ってからラーメン屋に行こうと思っていたが、散髪屋の待ち時間が意外と長くて、微妙な隙間時間ができたので、ショッピングモールの丸亀製麺でとろ玉うどんとかしわ天を食べた。最近出たラー油のトッピングが結構おいしい。さじ2杯ほどしか入れていないのに結構辛みが効いていて、辛味調味料の支配力を思い知った。外は生ぬるい空気で、自転車で走って散髪屋に入って少したってから、汗がぶわっと滲み出してきて、汗を拭こうとしても、ハンカチをカバンに入れておらず、汗ダラダラのまま順番を待つ中で、理容師の人に申し訳なく思った。

日記を書き続けて気づいたこと。たとえば、その日の日記を夜に書くとして、今日何があったかを思い返しながら書いていると、書いた事柄に付随して、その時は考えていなかったことを思いつき、自分は、そのときに思った事じゃないんだけどなと感じながらもそれを書く。つまり、日記には半分嘘を書いているということになる。やっぱりドゥルーズの「人はめったに考えない」という言葉を実感する。そして、多分ほかの人もそうなのである。

7月7日(『海がきこえる』)

夕方、ミニシアターで『海がきこえる』を見た。スクリーンを何かが横切るショットが多いことに気づき、それをなんとなく気にしつつ見ていた。駅のホームを横切る電車、家の前を横切る黒いバン、地面を横切る自転車のホイールと人(多分主人公の森崎)の足下、土のテニスコートを横切るテニスボール、飛行機のターボから噴出する熱風、森崎と松野が堤防沿いを散歩しているその前を横切る漁船。序盤で2、3回と終盤で1、2回ほどあった、スクリーンの外側が白い余白になり、カメラのショットが縮小して映される編集?演出?が印象に残っている。あとこれは先入観、イメージに引っ張られているのかもしれないが、画面の淡い色の構成というか、キャラに常にどこかから光が当たっていて淡くなっているような気がした。夏のあのまぶしすぎる日光に当たって、物体がほのかに白みを帯びるあの感じ。今まで、映画を見て泣きそうになるということがなかったのだけど、目がほのかに熱くなる感覚を覚えて、自分も年を取ったということかと、作中の人物のことを少し羨ましく思った。ジブリ、夏、90年代、田舎町、ということは絶対エモいやつだろうなとちょっとひねくれた気持ちで席に座ったが、結局、普通にエモく感じてしまった。余白の多い不思議な映画だ。
音響の音量が思いのほか大きくて、映画ってこんなに音大きかったっけと思った。

2025年7月6日(複数あること)

夕方4時半ころからブニュエルの『欲望のあいまいな対象』を見る。見ていて思ったが、自分は一人複数役や、逆に複数人一役の作品が好きなのかもしれない。リンチ『マルホランド・ドライブ』しかり、今敏パーフェクト・ブルー』しかり。そうすると最近、名探偵コナンにハマっているのも、この要素がふんだんに組み込まれていることが一因といえよう。なんだか、積読しているマルケスの『百年の孤独』を読みたくなってきた。この作品では、同名の異なる人物がたくさん登場して訳が分かんなくなっていくらしい。そういえば、子供のとき偉人の伝記を集めた分厚い漫画で読んだ記憶があるが、西洋では子が親に同じ名前を付けることがあったという。今もあるのだろうか。一方で、自分の苗字は珍しく、親戚以外で同じ苗字の人間に会ったことがない。だからこそ、以上のような名前や顔の複数性?のようなものに、無意識的にどこか魅力を感じているのかもしれない。と、なんか自伝っぽくなってしまいイヤになったので、今日の日記はこれで終わり。